概念のおもちゃ箱 

東大情報学環生が学問世界のおもしろい《概念》を紹介するブログです

2012-05-16

《道Tao》By 老子

今月のGWに金沢へ行ったときに、鈴木大拙館へ寄ってしばらくその水庭でぼんやりして以来、にわかにじぶんのなかで「禅」ブームがむくむくと湧き起こりました。ここ数週間いろいろと禅関係の本を読んでいて、こないだついにその系譜の始祖たる『老子』を読みはじめたので、今回はその《道》についてご紹介します。

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わたしたちの周囲にもこの中国伝来の《道》の思想は、神道や日本建築、茶道・剣道といったお稽古ごと、はては日本人に固有の「空気」にまで影響を及ぼしている、ひじょうに強力な概念装置です。その始祖たる老子自身は、この概念についてどのようなことを言っているのか?

 

 「「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名づけうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名」〔名づけえないもの〕からであった。「有名」〔名づけうるもの〕は、万物の(それぞれを育てる)母にすぎない」『老子』上篇第一章(現代語訳)

老子』による道の説明はまず「名前」にかんしてはじまります。これは旧約聖書にも同じことで、2500年前に登場してきた聖典の多くはこの「名以前の事物」にかんして言及しています。ただし、旧約聖書が、名(ロゴス)の登場以降の天地創造を物語るのに対して、老子は天地以前の混沌とした事態について語っている、これは西洋と東洋の思想を分け隔てるもっとも顕著な特徴のひとつだと思います。

 

さて、この天地以前の状態とはいったいいかなるものであるのか? 老子は語ります。

 

 「天と地にいつくしみはない。(それらにあっては)万物は、わらでつくった狗のようなものだ。...(だが)天と地の中間は、ちょうどふいごのようだといえるだろう。その内部は虚ろであるが、(力が)尽きはてることはなく、動かせば動かすほど(力が)多く出てくる。(いっぽう)口かずが多ければ、しばしば(ことばの威力は)使いはたされる。(心の)なかにじっと保っておくにこしたことはない」第五章

 

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老子が生まれた河南省の山々:彼もこのような自然のなかでその思想を磨いたのでしょうか...)

禅が無駄な言葉を嫌うように、老子も無駄なお喋りを嫌っています。人間にとって、天地が言語によって想像可能なものとなりその認知対象となるに先立って、天地の中間たるこの「あいだ」には、すでに名付けられた事物にはない、ある充実が存在している、と老子は説きます。この「あいだ」の空虚について、老子は第十一章にて、「粘土をこねて、容器をつくる。その何もない空間に容器の有用性がある。戸口や窓の穴をあけて、家をつくる。その何もない空間に家の有用性がある」とふしぎなことを述べているのですが、老子のこの言葉を引用しながら岡倉覚三は、その『茶の本』の中で次のように述べていました。

 

 「虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動することが可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう...」『茶の本岩波文庫p45-46

 

わたしたちが、真に活き活きとすることのできる運動は、言葉の内にではなく、言葉を発することがもはや不要でしかないある充実において、自己とは異なる他の立場や事物を自己の内に自由に入らせることができる。これは茶道にかぎった話ではありません。軒と軒の間の縁側とか、人里と山との間の里山などに代表される、日本文化に特有のこの空虚な「あいだ」概念は、老子の《道》概念にその由来を蔵しています。

 

この「あいだ」概念は後日またとりあげることにして、さて、このような《道》概念なのですが、そもそもその「道」という言葉に注目するなら、その言葉自体がはじめから「あいだ」のニュアンスを含有していることに気が付きます。「道」とは、何かへ到るまでの中間状態であって、わたしたちが変化するのは、この「道」の途上においてに他ならないからです。

 

そのため、老子の説く《道》概念は、「生成の場」として理解される必要があるとぼくは思います。それについて、上篇の最後の章ではこのように述べられています。

 

 「「道」はつねに何事もしない。だが、それによってなされないことはない。もし諸候や国王たちがそれを保持したならば、あらゆる物は自然に変形するであろう」第三十七章

 

この文章の後は次の文句がつづきます。

 

 「変形した物たちが頭をもたげようとしたら、われわれは「名づけられない樸〔あらき:材木や岩石など手を加えられていない自然の原料〕」の重みで抑制すべきである」

 

ぼくはこの文章を読んだとき、とりわけその最後の「抑制すべきである云々」を読んだとき、まっさきに、日本文化に特有の「空気」あるいは「雰囲気」を思い浮かべました。

 

日本人は共同体全体の空気を読みすぎるため、個人主義的な振る舞いをなかなかとれなくって、「出る杭打たれる」な社会主義的状態がすっかり醸造されている、とはよくいわれることです。

 

けれど、老子の《道》概念を、そのような「個の抑制」という観点からではなく、「自然の生成」の相から眺めるとき、わたしたちの日本文化観はまったく変わってしまうのではないでしょうか。すくなくとも、実際はそのような「出る杭打たれる」状態であっても、老子の思想にとって、その理念的には《道》は、新たなものの萌芽を摘んでしまうことなく、むしろそのような萌芽たちを積極的に促進するような、そうした雰囲気を社会に広めるような類いのものだと、『老子』を読んでぼくはそう感じざるをえませんでした。

 

 

老子の《道》概念には、わたしたちが日頃そう思い込んでいるのとはちがった、もっと奥深い思想が隠されているように感じられます。ぼくももうしばらく、この《道》に端を発する概念史のラインに沿って、いまの日本文化やその表象について考えてゆきたいなぁと思っています。

 

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(ちなみに、GWに訪れた鈴木大拙館の水庭の写真:モダン建築と禅の静寂とがみごとに調和している建築でした)

2012-05-13

《メタボリズムMetabolism》By 黒川紀章

先日、関東地方にはげしい雹が降ってからというもの、なんだかさいきんは寒い日々がつづきますね。ぼくは部屋の暖房を冬以来またONにしています。ありのままの自然環境とちがって、わたしたちの部屋という内部空間は温度が調節可能なようです。べんりな世の中になったものですね(決まり文句)。

さて、今回は、そんな建築にまつわる概念をご紹介します。

 

建築家の黒川紀章氏は、1960年代に《メタボリズム》、つまり「新陳代謝」という意味を持つ建築概念を世に問いました。

「空間が生活の変化・材料の耐用年数に応じて変化していくとき、その変化は、居住者の意志の反映であると同時に、建築家の意図する「変化の造型」を表現するものでなくてはならない。...
 建築家が作品を社会にぶっつけることによって、大衆の意志を認識するという創作の方法から一歩進んで、大衆を直接参加させる創作の方法をみつけだすことが「変化の造型」の基本になることはいうまでもないが、そこにはまず、大衆が意志を反映させることができる「変化のメカニズム」が建築家によって準備されねばならない。なぜなら、大衆は専門家ではないからだ。「変化のメカニズム」は、大衆の意志を「変化の造型」に結びつける橋わたしをするのである」

 

「つまり、建築家は「大衆」とか「群」とかいった現代の状況を、そのまま自分の造型としてお手盛りするのではなく、大衆の直接的な意志と建築家の造型意志のかかわり合いの中にでてくる「変化の造型」のイメージを、造型としてではなく、「変化のメカニズム」「変化のシステム」の中に封じ込めて、その発芽を待つのである」『復刻版 行動建築論 メタボリズムの美学』p35-36

 

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黒川氏の問題意識は、「たえず流動的なひとびとの流れ」を「不変的などっしりとした建築(箱もの)」に対置させることはまちがっている、建築も、その内外に生きるひとびとの変化に対応して、その都度新たな姿へと生長してゆくべきだ、という主張にあるとぼくは受けとめています。

 

建築とは、その所産にあずかる一般のひとびとにとっては「すでにそこにあるもの」ですが、建築家の能産的な観点からすればそれは、「そこでひとびとが生きるところ」であり、そこでひとびとが活き活きと過ごせるような環境を創造する営みです。

 

現代のわたしたちは、たぶん、あまりにも、すでにそこにある「箱もの」としての建築に慣れすぎているのだと思います。だから黒川氏がここで述べているような、「生長する建築」という考え方にピンときません。いったいそれはどういう建築なのか?

 

それは「こどもたちの秘密基地」を想像してもらえれば一番しっくりくると思います。樹木の上にこどもたちが小屋を建てる。しばらくそこで遊んでいると、もっとべつのスペースが欲しくなって、日を経るにつれその小屋はどんどん増改築されてゆく。

 

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ぼくにとって「生長する建築」といえば、この「秘密基地」のイメージが一番しっくりきます。さて、黒川氏の建築をいくつかみてゆきましょう。

 

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大阪万博東芝IH館)

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(佐倉市役所庁舎(1971年))

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中銀カプセルタワービル(1972年))

 

Key-wordは「結合」と「分離」です。

 

「台所・便所・浴室といったような設備スペースと、居間・寝室とでは全く異なる変化の仕方をもっている。たとえばワンルーム・システムを適当に、居間・寝室・便所といった具合に間仕切ったような住宅では、それぞれの空間が、それぞれの性格と機能に応じた独自の変化をすることは不可能である。...

 ジョイントの技術とは、結合の技術であると同時に分離の技術であることを忘れてはならない」『行動建築論』p32-33

 

森の中のあのこどもたちの秘密基地がいつも増殖をつづけているように、各部屋をモジュール化してしまおう。だだっぴろいワンルームを仕切ることによって各部屋を空間的にもそこに意味付けられた機能的にも分節化することは、「箱もの」としての静的な建築理念を再生産するに等しい。黒川氏の《メタボリズム》概念は、ワンルームという出発地点を暗黙の前提とする静的な建築理念に対するこのような批判を含意しています。

 

 * * *

 

ぼくがこの『行動建築論』を読んでいておもしろいなと感じたところは、黒川氏が、サイバネティクスエントロピーにおける《システムsystem》概念を軸にものを考えている点でした。

 

「自動車の増加・人口の移動・開いた社会への移行・消費時代・新陳代謝現象・超高層建築の出現などのそれぞれの現象は、都市そのものの実体である「情報の流れ」が、それぞれの側面を現わしたにすぎない。情報の流れとは、人の動き、ものの動き、金の動き、エネルギーの流れ、光・河の流れも含んだものとして考える。都市の構造化とは、これらの「流れの中」に”ある”構造系をみつけだす操作の段階であり、都市の設計とは、構造化を通じて、「流れ」を”かたち”にする段階である」『行動建築論』p113

 

「流れ/かたち」とは、「無秩序/秩序」の具体相であり、Norbert Winerの「サイバネティクス」やIiya Prigogineの「散逸構造理論」にみられるこうした考え方のフレームワークは、20世紀後半の学術界に大きな影響を与えていました。無論それらは各地域の古代思想にもみられるのですが、古代思想と異なる点は、20世紀後半の「無秩序/秩序」「流れ/かたち」は科学者の側から提起されたフレームワークだったという点にあります。

 

わたしたちは、日々、飲み食いし、おしゃべりしたり読んだり、自転車や電車で移動し、コンビニや駅やカフェでお金を支払ったりしています。そこには、流れるものたる「情報」と流れさせるものたる「結節点」からなるネットワークが、いろんなレヴェルで作用しているのがわかります。

 

宇宙・自然・日常をこのように理解する思想において、「建築」は今日いかなるものであるべきか? 黒川氏が精錬させた《メタボリズム》という建築概念は、 時代の寵児であり、20世紀後半が生んだ子どもとして理解できます。

 

21世紀のわたしたちの生活は、無線LANを用いてどこでもInternetにアクセスできるし、また「シェアハウス」という居住形態が若年層のあいだに広まったりしていますが、両者の現象はある程度同期しているものとぼくは感じています(じつは今回の《メタボリズム》という概念は、京都でシェアハウスをやっているぼくの知人から聞いてはじめて知ったものでした。今回これをとりあげたのは、その知人に対するぼくなりの応答でもあるのかもしれません)。

 

ICTによる狭義の「情報の流れ」と、日本固有の社会問題を背景とした「住まう人々の滞留地」 、つまり「流れ」と「秩序」は、互いに影響しあっており、片方の変化がもう片方の変化を触発し、さらにべつのレヴェルにもその変化が伝播してゆくものだからです。

 

黒川氏がこの概念を通じてわたしたちに語りかけるとき、わたしたちは、「住まう」「働く」「歩く」といった自身のふだんの営みを、もういちどじっくり見つめなおすよう、再検討するよう、求められているように感じます。こうした点で、氏の《メタボリズム》は豊かな問題提起と批判意識を包含している、すぐれて現代的な意義をもつ概念として理解することが可能です。

2012-05-10

《メディア・ビオトープMedia Bio-tope》By 水越伸

こんにちは、東京大学大学院 情報学環というところで修士1年をやっている世古和希(SEKO Kazuki)といいます。

 

じつはこのブログ、半年前につくったはいいけれど、いったい何を書けばいいんかなぁ...日頃のつぶやきはFBに書いてるしなぁ...

と思い悩んで、ある時期ふと書いてはまた消して、なんてのを繰り返していました。

ちょっとこれを機に、また何か書きたいと思います。

 

テーマは、ふだんあまり人目にさらされることの少ない「学問世界」で、じぶんが「おっ、おもしろいな」と感じた「概念」をぐだぐだ紹介する、という感じです。

 

しょっぱなは、うちのガッカンの先生でもある水越伸先生の《メディア・ビオトープ》という概念。

 

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ちょうど半年前に情報学環という謎の研究科の進学がきまってひと安心...けど、ここっていったい何やってるとこなの?と思っていた時期に、ぼくの友人が「書物の交換会」というのを介してこの本をぼくに恵んでくれました。ちょうど良いやと思って読んでみたら、これがなかなかおもしろい。とくに、生態学で用いられる「ビオトープ(生物たちの豊穣な生息地)」+「メディア」というふたつの概念を掛け合わせているところが、斬新な発想だなと感じました。

 

まずはじめに、「なんでメディアに生物環境のメタファーを使うの?」という疑問がありました。だってそれまで、ぼくがふだん観ているテレビ番組、Twitterでのつぶやき、SNSでの書き込みは、なんだかそこにそのメディアというか、機会があったから、ただなんとなく観て、書いて、つぶやいている。なんでこんな日常的な単純な行為に「ビオトープ」なのだろう?って。

 

この本には、電波塔みたいなスケッチ図が書いてあります。みると、なんだかその電波塔のてっぺんから半球状の覆いが発されていて(プラネタリウムみたいな)、それが日本を覆っている。水越先生は言います:

 

「たとえばあるテレビドラマが国民的な人気を博するというのはどういうことか。ドラマが電波塔から夜空に打ち上げられ、電波に乗って同心円上に花開いていく。電波が弱くなるあたりには中継局の塔があり、そこからあらたな波紋が引き起こされる。そうしたことが精密にくり返され、地域の隅々にまで、さらには国土空間の隅々にまで、瞬時に電波の波紋が広がり、ドラマという情報がドーム状に人々に伝播されていく。それをたがいに見知らぬ人々が、リビングルームや個室のテレビ受像機で受信し、同じ時間に、感動や経験を分かち合うことになるのだ」p20

 

ほう、と思いました。そうか、じぶんはこれまで、末端のウィンドウばかりを眺めていて、それでメディアを何かわかったつもりになっていたんだ、と。

 

で、ああ、それで《メディア・ビオトープ》か、と。

 

たとえば蟻が地面にころがる彼らのエサをえっさほいさと運んでいるとき、彼らはこのエサがどこから来たのか知りません。彼らの頭上の樹から落ちてきたのか、風に運ばれてきたのか、はたまた人間が捨てたパン屑なのか。

 

じぶんもその蟻とおなじだな、と。

 

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(本書の中のスケッチ図。著作権とかの問題があったら先生ゆるしてください笑)

 

こういうふうにみてゆくと、「メディア」というものがすごく興味深い現象のように感じられてくる。

 

Twitterの「♯〜」で互いに話題を共有しあうひとびと、Facebookでおもしろ画像をシェアしあって笑いあうひとびと、新聞紙の同じ記事を同じ日の朝に読むひとびと、それぞれ置かれている環境は、朝食が置かれている食卓であったり、電車の通勤途中であったり、はたまた恋人のベッドの中であったり、さまざまですが、「メディア」を通して伝えられる情報は、そうした一人ひとりの時間も空間も越えて広がってゆく。そこでひとびとは考え、笑い、「使えるネタだな」と思ってお昼休みの時間にその記事をFBに投稿したり。

 

「メディア」というと、どうもぼくなどは「機械」のイメージがつよいのですが、なんかそうじゃないみたいだぞ、と。そこには「生きているひとびと」に準拠された「メディア」観がありました。これは豊かな発想だなぁ、じぶんにはこの発想はなかったなぁ。

 

そんなことをこの《メディア・ビオトープ》という概念から感じとりました。

わたしたちの身近な生活が、ちがった相の下で眺められるようになる、そんな一冊です。